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自分がもし木下先生に出会っていなかったら、木下式音感教育法を受けていなかったら、そしてこの東京合同音楽祭がなかったら、決して指揮者にはなっていなかっただろう。
東京合同音楽祭では、しらぎく幼稚園の年中で初めて大舞台と生のオーケストラに触れ、年長で初めて独唱し、中学1年生で初めて合唱を指揮し、高校2年生で初めてオーケストラを指揮させて頂いた。僕にとっては全ての「初めて」の経験が、この東京合同音楽祭に詰まっているのだ。
よく「幼稚園児に大舞台やプロフェッショナルのオーケストラ伴奏は不必要では?」という質問があるそうだが、これは是非お子様自身に聞いてみて頂きたい。あの舞台裏の独特の空気の匂いと緊張感、生のオーケストラとノーリハーサルで共演する高揚感、これらは僕自身が幼稚園時代の記憶として鮮明に覚えていることなのだ。それは子供だからといって妥協するのでなく、一流の「本物」を提供してこその賜物である。
このように、木下式音感教育法は「教え込む」のではなく「体感させる」ことに重点を置いていると言えるだろう。無理せず自然に音感が身についている、という世界に類を見ない魔法の教育法だ。何よりも音感かるたやカラー五線紙のように音を「色」と結び付けたことが素晴らしいし、その配色が実に的確であったことが、プロの音楽家になった今とても役に立っている。実はこの教育法、今なお進化を続けているのには驚かされる。子供が変われば大人も創意工夫し変わらなければ。この進化し続けることが木下式の「魔法」の一片なのかも知れない。
木下先生を一言で表現するには「音楽家」でも「教育者」でも足りない。そう「芸術家」がピタリとくる。芸術の「芸」は古くは「藝」であり、草木の種をまいて大切に守り育てる、という意味があるそうだ。木下先生の盆栽の世界にも通じてくるし、教育にも音楽にも全てに当てはまる。木下先生は何事にも決して妥協をしない。それが子供には厳しさや恐れとなって映ったりするのだが、真剣なものには本気で対峙しなくてはならない、という基本的な所から教えて頂いたように思う。最近ではそんな畏怖の念を抱かせる大人が実に少なくなった。僕は親父に殴られたことがない。その意味では木下先生は父親代わりのような存在でもある。殴られて「痛い」と思うのは一瞬、すぐに「悔しい」「頑張らなくては」と思ったものだ。相手が子供であれ大人であれ『伝える』ことは本当に難しい。でも逃げてはいけないのだ。藝術を人間が生きる発露だとすれば、藝術に妥協しない木下先生の教えは則ち「生きることに妥協するな」というメッセージになる。
このように木下式音感教育法は木下達也先生の強い愛情とカリスマ性によって成立している部分が大きいのだが、東京合同音楽祭が30回を迎えた今、さらにグローバルな活動が展開されることを祈ってやまない。そしてこの音楽祭を経験した子供の中から、音楽家でなくてもいい、未来の日本や世界を担う人材が生まれることを心より願っている。(第30回記念東京合同音楽祭プログラムより) |
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